さ よ な ら

 空が見える。
 普段と何も変わらない。綿みたいな真っ白な雲が浮いている、目が痛くなるくらい真っ青な空だ。

 ……ああ、間違えた。
 空の様子が普段と何も変わらないのは確かだ。
 けれど、空は、ひどく狭かった。遮光性の高い瓶の底から天を見上げているような感じがする。四角く切り取られたそれは、一番身近な物で例えるならば、……A5判、数学の教科書くらいのサイズだった。まったくもっていやな例えだ、と思った。
 それきり思考が回復せずに、暫くぼんやりと空を見つめ続ける。ふと、意識が戻る前の――そうだ、先程気付くまでどうやら自分は意識を失って居たらしい――この攻撃的とまで言える青空以前の視界は、目を焼く程の橙、放課後の夕焼けに染められていた。その間の記憶はまったくない。無意識に身体が動いていない限りは、どうやら学校で少なくとも一夜を過ごしたようである。
 今は何時頃なのだろう、普段ならば今頃は何の授業だろうか。考えるのもいやな話だが。だがしかし、このような状態では、授業どころではない。一体何があった?
 体を動かそうと試みたが、何か硬いもので周りを固められいて、これっぽっちも動くことができない。そこで、ようやくぞっとした。半端に冷静になった思考が、身動きの取れない中、唯一動いた脳味噌だけを必死に動かす。しかし、半ば焦り、混乱したままの思考は無為に時間ばかりを奪っていく。

 僅かな隙間に何とか動いた頭を捻って、出来るだけ周囲の状況を見ようと努めると、眩しすぎる日の光に慣れてきた瞳が、自分のすぐ横に、やたらとつるつるした板―――ぺしゃんこにつぶれされた机を映した。唖然とする。開いた口は本当に閉じなかった。ちらりと視線を動かせば、机の上に積み重なるようにして瓦礫が載っていた。天井が落ちてきたのだろうか。呼吸する度胸部に強い圧迫感を覚えながら、天井の板はやわい板であるらしい、とかいう噂話を思い出していた。

 ……もしかしたら、机と同じ運命を歩んでいたのかもしれない。何が幸いしたのか知らないが、とにかく幸いだ。  何故天井が降ってきたのか、はいまいちわからない。すぐに理解できる人が居るならお眼に掛かりたい。と言うか、そんなこと考えられないくらいつらい。
 元・天井と思しき物体は、顔の部分のみを残して均等に身体に重力をかけてくる。
 特段腹が出ていると言うわけでもないが、腹にくる重さがきつい。内臓が出そうだ。……考えて気持ち悪くなる。
 食道を逆流するものを堪えようと、口に手を当てようとしてしまう。先述の通り、体が動かないので無理だ。
 どうにかこうにかそれを飲み込んで、吐き出すのを避ける。上手くはいえないが、のどの奥の辺りが気持ち悪い。
 そんな一人っきりの葛藤のあと、またあの空が見えた。

 そこには青と白があるだけで、それ以外に何もない。音すらも存在しないのだ。
 何人か、一緒に残っていた筈のクラスメートの姿も、人の声も、鳥の声すらも切り離されている。
 「――――誰か」
 腹に力を入れて、出せる限りの大声で叫んだ。つもりだった。精神的、肉体的に弱った自分では、それでもあまり大きな声ではなかった。
 「―――誰か」
 とうとう声は、自分の耳に戻って、自分の頭の中で響くことしかしなかった。
 それも消えて、残ったのはやはり空だけだ。
 誰か
 急に目が痛くなって、眉を顰めると、涙が零れ落ちた。理由は、目に何かが入ったんだろう、と思いたいところである。
 上を向いているはずなのに、一向に止まる気配のない涙は、誰に見られているわけでもないので放置することにする。
 ぼやける視界で、空がゆっくりとオレンジ色に変わって行くのだけが見えた。
 悔しいが、綺麗だ。
 それでまた馬鹿みたいに泣いた。
 何故自分のまわりだけ、こう可笑しいのだろう。
 どれくらい泣いたのか、もう泣けなくなってきた。変わりに水分が欲しくなる。
 「……誰か」
 喉は渇ききっていて、もう掠れた呟きしか出てこない。
 返答はきっとないとわかっている。そう知っていて言った。
 結局返事はない。予想通りである。
 どうしようもない。
 笑いそうになったけれど笑えなかった。笑うだけの力がなかった。
 空っぽの胃が何度も空腹を訴える。しかし、もう脳みその方では、それを感じなくなってしまっていた。



 ―――もしかしたら、机みたいにつぶれてしまっていた方が、しあわせだったかもしれない。
 ここには誰も居ないから。
 「………腹減ったなあ…」
 すっかりと乾いてしまった目を閉じる。
 日はまだ沈んでいないのに、瞼の裏ではゆっくりと夜がやってきた。