Twilight Dusk





耳慣れた、間の抜けた響きのチャイムが
下校を促す。
もうそんな時分か、と鞄を手に教室を後にした。





 空が朱い。
 宵の冷気を含んだ風が顔のすぐ側を通り過ぎ、耳元でびょうとないた。北風に煽られ乱された髪が視界を覆う。十六時の―確認したわけではないので、正確ではない。何しろ時計を持っていないのだ―燃える空に、ノイズのように黒い影が落ちる。無粋な其れをのろりと持ち上げた手で払い、溜息を吐く。陽はほとんど落ちていたが、昼間のうち日光にたっぷりと温められた大気は、呼気を染めるほど冷たくは無かった。ぼんやりと見上げた端を鳥が横切る。黄昏時、定時に木霊する童謡が過ぎった。

「おおい」
 決して控えめとは言えない音量の弾んだ声が、人気の無い空間によく響く。反応して顔を音源へ向ける。見慣れた顔が手―否、腕を振っている。高だか数十メートルの距離でそこまで声を張り上げる必要は無いように思える。大げさに、はっきり言えば迷惑だ。しきりにこちらに呼びかける明るい声と、肩から振られる腕がとても滑稽で、思わず頬がゆるむ。
 そちらに特に急ぐでもなく足を動かす。元より向かう方向であった。近づくにつれて、表情が細かく見て取れる。いや、細かく見る程の表情でもない。浮かべられた太陽の如き眩しい程の笑みは、つい先日のものとほとんど変わらない。夕焼けの色づいた光に照らされて橙の様な相貌は、数日前の其れより幾分か明るく見える。そんな気はしなかったが、二、三日間この能天気な人間と相対していなかった気がする。何より目立つ人間であるので、頻繁に目に付くのだ。会って話してはいないのに、毎日顔を合わせていたような気さえする。

「やっ! おはよう」
「こんばんは」
 そう交わして、どちらとも無く並んで歩き出した。いつの時間帯であっても、この人は同じ挨拶をする。それを指摘するべきなのか、とは思ってはいるものの、裏の無い笑顔が妨げて、結局何も言わず、こちらはその時間帯に適当な返事をする。ちぐはぐな挨拶を気にするでもなく、嬉しそうな表情がおどけた風に口を開く。
「今日も一日お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
「何か面白いことあった?」
「……特に」
 笑顔が更に色濃くなり、そっか、という小さな呟きが静寂に落ちる。それから十メートルの距離は無言が広がった。相変わらず笑みは絶えない。二人で歩く速度はそれほど速くなく、ゆったりと深海をゆくような穏やかな時間の流れに包まれた気分になる。不気味な緋色の深海の底は、不思議と心地よい。
「明日も楽しいといいね」
 再び零れ落ちた幸せそうな一言に頷きを返す。歩いているので頭が上下してわかりにくいだろうと思ったが、しっかり見止められていたようで、ちらりと視線だけを隣にやると、面持ちは心底幸せそうで、つられて此方の表情をつくる筋肉が動く。その変化は気取られることなく、再び心地よい無言と共に歩を進めた。

 そして、ふと、今更のように思い至る。生来快活な性質ではない自分は、このような状況を嫌とは思わない、寧ろ好ましく思えるが、隣を歩く自分と対照的な、底抜けに活発な人間は如何考えるのだろう。様子を窺おうと、並ぶ緩やかな歩みを見上げる。しかし、何時の間にか太陽は完全に地平線の彼方に飲み込まれていて、表情は読み取れなかった。周囲の暗さに、黄昏は短いものにしても、それでも大分距離を歩いてきたのだと知る。

 数回の明滅の後、等間隔で立つ外灯が広がる藍色に白光を滲ませた。伸ばした足の下にぼんやりと暗い影が落ちる。じっと影を見つめたままでいると、急に不安になってきた。まるで錘を飲み込んだようで、肺に穴が開いたようで、心臓が重たい気さえして、気づけば足を止めていた。
 一つになった足音にすぐに気づいて振り返る、その容相は、ちょうど外灯の傍らで白い人工の輝きに照らされた。
「どうした」
 不可解と心配の入り混じった心中が見て取れる。解らない。
「どうして笑っているの?」
「え?あー…自然とそうなるからであって。嬉しいとか、楽しいとか思ったら、割と自然に」
 唐突な質問にも、眉を怪訝そうに寄せたあと、笑顔が返ってくる。心が急いて、それに向かって矢継早に問う。
「今、笑ってる。さっきも笑ってたけど、楽しい?愛想もないし、話さないのに。ただ並んで帰るのは、そんなに楽しいこと?」
 真正面に見据えた面は、驚きと当惑で目を見開く。数秒の後、相好が崩される。
「他人と……好きな人と、一緒に居られるって、嬉しいじゃん?」
 はにかんで笑った顔は、勿論もう沈んでしまった陽の所為でなく、皮膚の下を走る血が透けて赤い。誤魔化そうとあげたのだろう笑声が、誰そ彼の熱の冷めた路にあっさりと広がる。
 これが幸せというものか、と思うと、途端に身体の暑くなるのを感じた。




 何を言うにも気恥ずかしい。
 分かれ道に来るまで、二人は無言だった。
 帰宅の為にそこでわかれることを余儀なくされ、故に口を開く。
「また、今度」
 そう言えば自ら話しかけたのは初めてではないか。
 それだけで、夜風に冷やされ落ち着いてきた温度が、再び身体中を満たした。