某月某日、真白な部屋で幸福の定義について

 少女が小首を傾げると、肩より僅かばかり長い、真っ直ぐな黒髪が揺れて、しゃらり、と涼しげな音を立てた。
「変なことを聞きますね」
 くるりとした一対の目を質問者の居る方に向ける。視線を浴びた男が肩をすくめた。おどけた口調で詫びる。
「気を悪くしたら失礼」
 その声音を聞いて、少女はくつりと笑いながら、そんなこと思っても無い癖に、と呟く。これに返事は無かった。心なしか不機嫌そうな雰囲気が男の方から伝わってきて、少女は今度こそ声をあげて笑った。
「わかりやすい人ね。私の様子が変わらないのは不愉快?」
 砂糖菓子のような微笑と歌うような調子で投げられた声が告げたその言葉に、男はますます顔を顰めて自らの髪を撫でた。
「貴方がこうまでわかりやすい人だとは思わなかったわ。今までは見えていたからそうは思わなかったけれど。見えない方が見えることもあるってよく聞くけれど、本当にそうなのね。視覚を補う為に他の感覚が鋭くなる、のかしら。人間は視覚に騙されやすいのね」
 少女は発見に喜びの色を隠せない。弾んだ声色からは僅かな興奮が聞き取れる。頬の辺りがうっすらと紅を刷毛でのせたように赤くなっていた。
 喜色満面な姿は少女を幼く見せ、心を和ませるものであったが、男は変わらず苦い顔のままであった。寧ろ機嫌は右肩下がりのようで、今にも舌打ちが聞こえてきそうなものである。
 不意に少女は動かし続けていた口を噤み、恥じ入った様子で唇を細い指で覆った。しばしの逡巡の後、巫山戯た調子で詫びる。
「気を悪くしたら失礼」
「そんなこと思っても無い癖に」
 悪戯そうに歪められた少女の赤い唇を睨みつけながら男が言った。嫌味には嫌味で返すものだろうと言い訳染みた呟きが付随する。男は焦燥から、自身の腕を掴んでいた指先に力が入る。
 内の苛立ちを外に吐き出すように、大きく息を吐いて、見えないと知りつつ男は厭味ったらしい笑顔で以って話を進めることにした。
「――さて、話はもう逸らさないで頂きたいね。質問に答える気は?」
 そもそも発端はひとつの疑問であったのだ。
「勿論お答えさせていただきます。ただ……精神論と言うか…人生観と言うか……答えるのが難しいとは思いますけど」
 ええと、と少し言葉を探す、或いは選ぶ仕草を見せてから、少女は再び話し出す。
「井の中の蛙は大海を知らないってことですよ」
 意味を取れずに男が不審な顔をする。見ずともそれを理解していた少女は補足した。
「当然、知らないことには求められない、という意味でもありますが。生まれつき見る事ができないなら、見ることのもたらす幸福は、想像こそできても、本当の理解まで至らないのでしょうね。―恐らく、その幸福は、一生光を失わずに過ごした人にもわからないのでしょうけれど、今は関係ないことですね。忘れてください。ええと、話をもとに戻しまして。知らないことを知らないことには求めるものもないでしょう?言葉遊びみたいなものですね。
 私が言いたいのは、それではないですけど。」
 私は生まれつき見えなかったわけではないですし。顔の一部の飾りと成り果てた黒曜石の輝きは、盲いる前と何ら変わりの無い。目線はあくまで悪戯小僧のそのもので、男を見据えていた。
「蛙は海では生きれない、っていう話は聞いたことあります?私も記憶が定かじゃなくて……確かなことは言えないです。蛙は本当は海じゃ生きていけないんですって。死んじゃうんだそうですよ。――だから何って顔はやめてください」
 男はいい加減、脱線する上意図も読めない要領の悪い少女の話に飽き飽きしていた。眉は盛大に顰められている。相手に見えないという油断もあって相貌は筆舌出来ない程に酷い。
 表情こそ読めないものの、少女は失ったもの以外の感覚で相手の喜怒哀楽くらい、状況等等を鑑みてうまくすればはっきりと表される所懐程度は読めるようになっていた。
「結論だけどうぞ」
「それだけだと理解できないって顔するくせに……。
 神様に近づき過ぎたイカロスは死んでしまいました。とでもいいましょうか。
 望みすぎなければ良いんです。それだけですよ」
 簡潔さを求めた男の要求に、少女は多少遠まわしな例をあげはしたものの、要求通りのあっさりとした回答を告げた。
 そして、男の口を挟む前に先手とばかりに補足を加えていく。
「ああ、現状を肯定し、自分の分相応の、力に見合う振る舞いをする、でもいいですね。特に難しいことでもないです。
 ――現状に満足することと幸福とは少し違うかもしれませんけど、人間には思い込むことができますからね」
 少女はふと、諦める、というと少し聞こえが悪いですかね。と一人零した。思考していると見える男は黙ったままだった。

 男が、発言をしようと結んでいた唇を開いたとき、具合の悪く、少女がゆっくりと身体を傾いだ。
 まるい大きな、光を取りこぼした瞳が、先刻よりも意地悪く歪められる。
 そうして、刹那の静寂、緊張が落ちる。
 少女は笑顔だった。

 「私を不幸な人間だと嗤いたかったですか?お生憎様ですね」




「あなたはしあわせですか」

「当然でしょう」